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『足跡』〜【1673】(2010/05/22 Sat)
久しぶりの朝風呂に1時間ほどゆっくり入りながらラジオを聞いていると、関西圏の高速道路や幹線道路が30〜40キロの渋滞となっている事を報じている。連休と高速道路の千円効果が重なれば、運転する人は止む得ない処であろう。
家族の思い出を作るにはお父さんの汗のかきどころだから、ここは我慢して貰わねばと湯船に浸かりながら、随分昔にゴールデンウィークの渋滞の巻き込まれた事を思い出していた。その様な事も時間が経てば、思い出の一つになってしまう。 入浴中に昨日の「冷泉家 王朝の和歌守展」の感想をブログに記すべしで考えていたが、上ってから「きちんと調べないと書けないなあ」と困ってしまった。何しろ、冷泉家時雨亭叢書完結記念(全84巻)と銘打った展示なので、殆どが重要文化財である。 守り伝えれてきた古典籍の精髄を一堂に会し、これまでにない規模での展覧だけに、おいそれと感想等、書ける代物ではない。早朝に読んだメルマガが昨日分の延長線上にあったので、本日もこれにて学習記録する事にしておきます。 “クロスオーナーシップ”と云う言葉の学習を以前したが、それに関する事なので理解し易かった事もある。この堅苦しい一文を読んで、本日は在宅でのんびり時間を過ごしたい。 『ニュースクリップ : 電波利用料オークション マスメディアが報道しない理由(5月2日付、オリーブニュース) マスメディアが民主党政権をバッシングする理由に、クロスオーナーシップの禁止があることは既に述べた。クロスオーナーシップとは、日本では常識になっている新聞社とテレビ局とが同じ資本系列にあることを言う。 欧米民主国家では、マスメディアの相互チェックが働かないので、このクロスオーナーシップを禁止している。次に挙げられるのが「新聞の再販制度禁止」と「電波利用料オークション」だろう。 電波利用料オークションとは、あまり聞き慣れない言葉である。その話に入る前に、放送・通信に使われる日本の電波事情のことに触れる。 テレビ放送がアナログ放送からデジタル放送に完全に変わると、現在アナログTV放送で使われている周波数の電波領域が空くことになる。これまでの日本なら、電波は「お上」(=監督官庁=総務省)が下々に使わせてやるものであった。だが、それはおかしいだろう。 放送・通信に使用できる電波領域には限度がある。限りのあるものは、公平に、効率よく使うのが当然。09年にテレビのデジタル化が終了したアメリカでは、アナログ放送で使用していた電波領域を公開オークションにかけた。しかも、入札のあったすべての企業のすべての価格が公開された。これが電波利用料オークションである。 限られた電波周波数を、これまでのように「お上」=監督官庁がコントロールするものではない。また、何時までも既得権を持つ放送・通信事業者だけに独占的に、低価格で使用させるのもおかしい。 今の日本は、その電波使用の「鎖国主義」で周辺のビジネスを衰退させている。電波の使用を誰にでも公開することにより、新しいビジネスが生まれる。これが世界の流れでもある。このように民主党は主張している。 4月19日に総務省は、通信・放送各社から徴収する電波利用料のあり方を検討する「電波利用料制度に関する専門調査会」の初会合を開いた。これからそこでどう云う議論になるか、それは分からない。 因みに読売は「電波利用料」のあり方を検討する調査会、と微妙に違う表現をしている。料金だけを検討する会にしたい、とのニュアンスである。この微妙な差が、マスメディアと民主党の考えの大きな差なのである。 総務省は、携帯電話会社や放送局などから、毎年電波利用料を徴収している。総務省によると、10年度の電波利用料収入見込み額は711億円。もっと詳しく見ると、NHKと民放各社の電波使用料合計は約36億円。 NHKの事業収益と民放各社の営業収益の合計3兆数千億円の僅か0.1%しか、電波使用料を支払っていない。一方携帯電話会社全体で6百億円近い金額を支払うことになる。 どうしてそんなに差が付くのだろうか。携帯電話は1台が一つの無線局と見做され、1台あたり年間540円が徴収されている。1台当たりは低額だが、業界全体とすれば、巨大な金額になっている。処が、総務省が集めた電波使用料金の多くが、テレビ放送のデジタル化投資に使われているのだ。 アメリカをはじめ先進(OECD)30カ国中、23カ国では電波使用料がオークションされ、そこから多くの収入を得ている。日本でもオークションを行えば、最低でも年間1兆7千億円になると、鬼木甫阪大名誉教授(情報経済論)は言う。新しい立派な財源である。民放各社が支払う電波使用料は値上がりするだろうことは、容易に推測できる。 民放社員の平均年収は、1千5百万円とか言われる。自らの努力と才覚で高給を手にするのは当然である。だが、国民の財産である電波を、国際的に見て非常に安い価格で独占的に利用して高給を得ているとしたら、それはおかしな話だ。 だからマスメディアは既得権益を守るために、民主党が電波利用料オークションの旗を降ろすまで、バッシングを続けるつもりだ。このことをマスメディアは絶対に報道しないだろう。 記者会見のオープン化を最初にしたのは小沢民主党代表。クロスオーナーシップの禁止を発言した原口総務大臣。民主党で彼をバックアップする小沢幹事長。電波利用料オークション制の導入に意欲を燃やす小沢幹事長・原口大臣の頑張りどころである。』 この数日間の投稿は民主党の応援みたいな感じだが、物ごとの本質をジャーナリズムがどの様に調べ、考えを纏めているかを学習しているのだと思っている。明日からは話題を変えてみなければと思っている。 (5月2日)
『足跡』〜【1672】(2010/05/21 Fri)
中国・上海万博がきょう開幕となった。北京五輪に次ぐ一大国家イベントである万博を通じて、国威発揚と大国としての存在感を内外に誇示する事になる。GDP(国内総生産)で今年日本を抜き、米国に次ぐ世界第2位の経済大国なる見通しと云われている。
思い起こせば東京五輪と大阪万博で日本経済の基盤を成した経緯を辿っている事になる。添え物である本格的バブルも経験するだろうし、其の崩壊も訪れるであろう。その過程できっと報道の世界も規制が緩和され、緩やかな民主主義の道を歩みかけるであろう。 経済の進展で一番顕著に表れるのは国民の自信から来る“やる気”に違いない。其れが過剰になると中華思想の再来である。軍事力と経済基盤の確立は、世界覇権に向かって100年余に亘ってきた眠れる獅子もやっと目を輝かせる事態となる。 日本の昭和40年代を考えると中国の方向はその様ではないかと思う。国民が夢を見られる時代は不安が無い。その様な砂上の楼閣が消えた日本は、再生に向けての産みの苦しみを現在進行形で続けている事になる。 本日はマスコミの姿勢に対しての考察をメルマガから参考学習して、産みの苦しみの阻害要因たり得るのかを検証する事も大切と思っている。しかし、連休中を考えれば、何ともつまらない話題である事は間違いない。 『ニュースクリップ : 誰も指摘しない検察審査会議決から出てきた不思議(4月29日付、オリーブニュース) 27日東京検察審査会が小沢民主党幹事長を、起訴相当とした。その容疑内容の詳細を読んで、改めてマスコミの異常なまで小沢バッシング効果を認識した。毎日のように小沢は「クロ」だと刷り込んだ結果がこのような形で表れ、喜んでいる者たちは別として、良識あるマスコミ人は、どう思っているのだろう。市民の常識か??? 一般的に言えば、検察は素人集団である検察審査会で、起訴相当とされるのは「恥ずかしい」ことである。兵庫県で検察審査会が、起訴相当とした明石の歩道橋事故や尼崎の電車脱線事故では、多数の被害者が出たという事実が存在し、被害者の遺族の感情を考慮しても、犯罪を構成する要素が欠けるとして、検察は、検察審査会の不起訴不当を2度拒否した。そしてその結果、強制起訴になった。 審査会は非公開で、審査員は守秘義務がある上に、誰が審査員になっているかも、明らかにされないことになっている。処で、マスコミの話を信じる訳ではないが、第一線の検事は小沢氏を起訴したかった、と報じられていた。 だからこの審査会で、担当検事が出席し、審査会に対する説明や質問に対して答えた時、そこに思い入れがあったとしても不思議ではないし、それを咎めることは誰もできない。 処で、新聞を見ると次のように報道されているのだ。(以下引用)「不起訴とした理由は?」「必要な捜査を十分尽くしましたか?」。審査員から木村検事に、厳しい質問が飛んだ。 こんな問いも発せられたという。「仮に再捜査を求めた場合、どんな捜査をすることができますか?」(引用終了)。例え僅かでも、審査結果の発表と同時に、審査会の模様がどうしてこのように報道されるのだろうか。不思議な話である。 不思議な話はまだ続く。筆者の記憶に間違いが無ければ、石川議員が起訴された日、特捜部長が記者クラブメンバーだけを相手に記者会見を開いた。その翌日、朝刊各紙は、石川議員が起訴されたことを報道したが、訴因を詳しく報道した新聞は一紙も無かった。 読売と毎日は虚偽記載金額21億円と報道した。処が、審査会の容疑内容には、その21億円が消えている。検察が訴因変更した、と言う松田光世氏のツイッター情報は正しかった。と同時に、検察によるマスコミ操作疑惑が浮かび上がるのだ。 そして不思議では済まされない事実にぶつかる。容疑内容の要旨に書かれているのは2月4日に石川議員などが起訴された(変更された)訴因である。前後は省略するがその中にある石川議員が関与した部分は、「陸山会会計責任者だった大久保秘書、その職務を補佐していた石川知裕衆院議員と共謀して」と書かれている。一見、見過ごすが検察が立件した石川議員による虚偽記載事件への関与は【ここだけ】だろう。 この容疑内容で、検察は国民の代表である国会議員を、国会開催直前に逮捕したという事実をどう考えるかである。しかも、石川議員は14日に任意の事情聴取を受け、16日にも事情聴取を受けると約束していた。石川議員には逃亡のおそれは全くなかった。 検察は「自殺のおそれがある」としたが、それは後付け理由に過ぎない。しかも、郷原名城大教授の著書「検察が危ない」によると、この逮捕状には石川議員への容疑事実が特定されていなかったそうである。裁判所もその見識が問われる。 これは明らかに、検察だけに与えられている国家権力(=公訴権)を濫用した、検察権力による民主主義への挑戦だと言える。そしてこの点を誰も問題にしない処に、血を流さないで、与えられた民主主義しか知らない日本人の欠陥があると思う。 小沢氏が「お上意識」からの脱却を言うのだが、国民の意識はなかなか変わらない。国民のレベル以上のものは、所詮、国民は手にすることはできない。これが現実だろう。 検察は、審査会の容疑理由だけで直ちに起訴するのも、再捜査して共謀を立証することも難しい。再度不起訴にして強制起訴になると、検察は全ての証拠資料を指定された弁護士に提出しなければならない。 それは検察の無謀?陰謀?が明らかになることなので避けたい。苦虫を噛み潰している検察首脳の顔が浮かぶ。一方で、自分たちが正義だと自己満足している一団が笑っているのも事実だろう。マスコミが事実を曲げて報道することが、如何に日本の政治だけでなく、検察官僚を暴走させ、日本の民主主義を危うくするか、マスコミも真摯に反省すべきである。』 中国の40年後に、本ブログの様な話題があるのが良いか悪いかは分からない。時代が是正されながら進展していれば、桃源郷になっている事もあり得る。そうなれば日本人は禺者であったと反省しなければならない。私はこの世におらんだろうが。 (5月1日)
『足跡』〜【1671】(2010/05/20 Thu)
本日の朝刊(京都新聞)トップは全国世論調査で「内閣支持率急落20%」というものであった。「小鳩体制 不信頂点へ」という見出しも出てくる。
米軍基地移転問題、小沢幹事長に対する東京地検特捜部の再捜査、高速道路問題などの政権としてのコメントが揺れている現実はスマートな対処とは言い難いが、個人的には「政権が交代したからと言って全て手の平を返した様な事は出来ない、時間を要する。」と認識しているので、目くじらを立てない。 マニフェストに書いてある事を4年間で全て事項したら、それだけでも旧来から言えば天地がひっくり返った印象となる筈である。傷んだ体は西洋薬の即効性や手術を要する緊急性もあるが、漢方薬の様に自浄作用を蓄えながら体を回復させる事が重要である。 初期の処置段階で大騒ぎする程、過去の政治が安泰であったのかと疑ってしまうほどである。1票の権利行使とリスクを持った者としては、「そのとき義経、少しも騒がず」と云った心境も間違いではあるまい。騒いで利する集団も民主主義だからこそ存在する。 さて、昨日の続きを下記して、参考記録としておきたい。 『ニュースクリップ : 小沢主義考(5) リーダーの条件と政局を見る(4月24日付、オリーブニュース) リーダーは「志」を持て。志とはビジョン、夢、あるいは理想と言い換えてもいい、と小沢氏は言う。さらに、リーダーは自分がリーダーとして何をしたいのか、どういう社会や組織を作りたいかの目標なり志なりを具体的に持っていなければいけない、そして自らのビジョンを現実のものとすべく、自分で決断し、自分の責任において実行できる人物。それがリーダーだ、と言う。 23日、舛添要一参院議員が自民党を離党して新党改革を旗揚げした。どのような設問のアンケートか知らないが、舛添氏はマスコミのアンケートによると、何でも次期総理候補のナンバーワンだそうだ。 そのアンケート結果にどれだけの意味があるのか知らないが、「政権党でないと意味が無い」と言って自民党に入党した舛添氏。その自民党からの離党は、ある意味で必然だったのだろう。この新党改革を含め、雨後の筍のように乱立する新党には政治理念が全く見えない。共通しているのは「第三極」を目指す「反民主党」だけである。 政権党であった自民党から離党し、新しい政治理念を打ち出した93年当時の「新党さきがけ」や「新生党」との最大の違いは、新党を創立したリーダーが持つ「志」の差だろう。落城寸前の城から脱走する落ち武者と、堂々と出撃する勇者の差とも言える。 リーダーに求められる資質として、二番目に挙げたいのは、自立した人間、主体性を持った人間であること。資質の第三は、自分なりのビジョンを持つために不可欠な広い視野と先見性だ、と小沢氏は言う。 このリーダーの資質が、いみじくも明らかになったのが、21日水曜日の党首討論である。自民党の谷垣総裁は普天間の移設先について、首相に対しその腹案を示せと執拗に迫った。何と馬鹿なことを訊くのだろう。 徳之島が炎上した直後、そのような微妙な問題に答えをする訳がない。日本の政治家なら、たとえ野党でも、沖縄県民の心情を察すべきだ。東西冷戦時代は、その最前線に日本は位置していた。 専守防衛の日本は、その軍事政策について米国追随も致し方なかった。そのために沖縄県民に過重な負担を強いた。だが、今は違う。新しい時代の日米関係を基に、普天間の移転先について首相に論戦を挑むべきときなのだ。 即ち、米軍の再編計画などを質し、沖縄の米軍基地縮小やグアム・テニアンへの移転との関係で、普天間基地移設の問題を質すべきなのだ。 だが、これまでの自民党の外交政策が、外務官僚の対米追随政策と二人三脚であったため、自民党のリーダーに擬せられた人たちでさえ、対米政策に自主性も先見性も持たなくて済んだ。だから、沖縄県民の痛みなども分からない。結局、視野の狭い質問しかできなかったのだろう。 リーダーに求められる資質の第四は「自分の言行に責任を持つ」ことだと言う。リーダーに権力が与えられているのは、偉いからでも、実力があるからでもない。最終責任を引き受ける覚悟を示し、決断が間違っていれば潔く立ち去るという姿勢を示すことで、初めて人々はその人物に権力を預けようと考える、と小沢氏は言う。そしてリーダーを目指す人は、このことを決して忘れてはならないと言う。 リーダーを選んだ方も、そのリーダーに任せる覚悟が必要だと言う。小沢氏は、今日あることを知っていたかのように、次のように書いている。「リーダーとして一度担ぎ上げておきながら、まだ改革も進まないうちに、あれやこれやと理由をつけて足を引っ張るのは日本人、ことに日本のマスコミの悪癖だし、それは自分自身の手で未来の可能性を摘み取ってしまうことに等しい。」当に今のマスコミ報道のことである。 小沢氏は、明治維新前、公武合体と云う小手先の改革に対し、「船中八策」という新ビジョンを出した坂本竜馬のリーダーとしての先見性を評価する。そして2年間で日産自動車をV字回復させたのは、ゴーン社長の「ダメだったら自分が責任を取る」との姿勢であったし、リーダーを信じて支持した社員たちだったと言う。 昨年、8月の総選挙では民主党に投票し、今、期待はずれを言う人は、耳が痛いだろう。鳩山首相は、優柔不断だとか言う声もあるが、決めることは決めて来た。自民党政治では、全て官僚が次官会議で決め、閣議で大臣が署名捺印する政治であった。 だが、民主党政治のスタイルは違う。閣議決定前までは、百家争鳴なのである。だから一見優柔不断に見えるだけである。なお、普天間問題は5月末と言っているのを、マスコミが勝手に足を引っ張っているだけである。リーダーとしての真価はこれからだ。』 どの政治家もトップの位置に近付けば、同様の見識を持つようになるだろうし、ならなければならないのだと思う。其れがリーダーたる目覚めだから高次元の理念で無ければならない。現実は必ず目減りするからである。 落差が大きいと“ホラ吹き”になり兼ねない事ぐらいは先刻ご承知だから、天に唾する度量と勇気が無いとリーダーには向かない。後はやり通す信念である。その時点で悪代官イメージが付き纏っても、国民に利する政策はやり終える包容力を国民も必要だろう。 その包容力が1票のリスクであると私は思っている。明日はマスコミに対する考察をメルマガから学習する予定。 (4月30日)
『足跡』〜【1670】(2010/05/19 Wed)
私にとっては死語に近い言葉だが、本日からゴールデンウイークが始まる。明日の金曜日も休暇が取れる人なら1週間の休日が確保出来る。このケースは最も恵まれている勤め人の場合となるが、不景気が身にしみた世になって久しい。
就業機会の減った人なら、休日の実感も湧かないかも知れない。その分、時間の過ごし方を学習した人なら、お金をそんなに使わなくても充実した時間を楽しく過ごせる筈だ。その様な心の余裕が豊かさを感じさすなら、交通渋滞の火中の栗を拾いに行かなくて済む。 好況に越した事は無いが、不況がもしかして物ごとの価値観の再発見を与えてくれる機会となってくれればとも思っている。その様な負け惜しみを秘めながら、昨日に続き小沢主義考をもう少し掘り下げておきたい。 『ニュースクリップ : 小沢主義考(4) 「選挙の重さ」を考える(4月21日付、オリーブニュース) 新党ブーム?を横目に、7月の参院議員選挙を前にして民主党では、次々と候補者を決めている。その中、定員2名以上の選挙区で、複数候補を擁立することに抵抗した発言があった。定員2名の選挙区で民主党から1名の候補者なら、当選確実だろう。 だから、最初の1名に公認された候補者やその後援会などが、反対したくなる気持ちは十分理解できる。だけど、それを小沢幹事長は認めなかった。 小沢氏は、定員2名以上の選挙区に複数の立候補者を擁立するのは、参院での単独過半数を目指す民主党の方針だと説明する。定員2名区で立候補者が1名だと、過半数を達成する責任を、野党候補と必死の戦いをする定員1人区の候補者に負わせることになる。 それはおかしい、と小沢氏は言うのだ。なぜ、小沢氏が、共倒れのリスクを冒してまで、2名にこだわるかのだろうか。 選挙戦術的な表向きの理由は、悪くても1名は確実に当選する。上手く行けば2名独占もある。一方、候補者は、落選したくないので必死になる。必然的に民主党支持層を拡大する。いわゆる票の掘り起こし効果である。 マスコミや政治評論家の見方は、以上のようなものである。その見方は決して間違ってはいないが、それは皮相的な見方である。小沢氏の狙い・考えは、もっと次元が高く、政治信条である。 鳩山内閣は、昨年11月に、第一回目の事業仕分けを実施した。その時、新人議員の 教育を優先させ、仕分け人に内定していた当選1回目の議員を外した。そのことを批 判する声が結構あった。 どこの企業でも新人教育を済ませないうちに、現場に出すことはない。政治の世界でも同じであると思ったが、どうもそれだけではなかった。 選挙のとき、よく新人候補がが「自分が今までやってきた仕事での経験を政治に生かしたい」と言うが、それも大事だが、一人の人間が仕事を通して得た知識や経験だけで政治をやってもらっては困る。それはともすれば、独りよがりに終わってしまう。 なぜなら世の中にはいろいろな仕事に就き、さまざまな境遇に置かれた人々がいる。そう言う人たち全ての生活を引き受けるのが政治である。だから新人政治家の第一の仕事は、さまざまの人の所に飛び込んで、人の話を聞くことだ、と小沢氏は言う。 そうしてたくさんの話を聞いていくうちに、自分が政治家として何をすべきか、今の社会のどこに問題があるかが具体的に見えてくるはずだ。そうしたことをろくにせずに政治家になろうというのでは、政治家として失格だ。 どんなに立派な見識・経験があろうとも民主主義の政治家になりえない。小沢氏はそう言う。だから、新人議員が仕分け作業を「これが政治だ」と勘違いしないように、参加させなかったのだろう。 この「人の話を聞く」が、小沢氏の政治家としての原点。政治家としての志を貫き通すには、一軒一軒の家を回り、自分の理解者を1人でも多く増やすことであり、自分の主義や主張を知ってもらうことである。 マスコミはそれを「どぶ板選挙」と言い、地元に密着しているので、地元の利害に引っ張られる、と批判する。だが、それは全く逆で。地元に強い、選挙に強いことが自分の信じる道を歩ける、と小沢氏は言う。 小沢氏が「選挙に強い政治家になれ」と言うのは、選挙で外部の組織や風を頼りにする政治家は、常に「他人の目」を気にしなければならない。「こういう政策を打ち出せば、支援組織が逃げていく」「こういうことを言うと人気が落ちる」と考えると、腰が引けてしまい、政治家として、信念のある行動をとれないだろう、と言うのだ。 2人区に2人の候補者を擁立するのは、風や組織に頼らないで、有権者の懐に飛び込んで地道に基盤を作れと言うことだ。特に第一次公認候補者で、連合などの組織が付いている候補者は、支援組織頼りになっている。 小沢氏は「政治家は選挙によって鍛えられる」と言う。2名区で1人候補では、真の政治家は育たない、と言うことだ。小沢氏は「いい政治家を育てるのは国民自身なのだ」と書いている。だから小沢氏は「選挙の重さ」を理解して欲しいと説いているのだ。』 企業における新人研修は時代と共に内容は違っているだろうが、属している会社の実務概略を知らずして仕事は出来ないという考えから来ている。教育界も昨今は新任教師が担任を持たない立場で教育実習すべきと云う考えが定着している。 昔は学校出たての教師が教師然と出来たのは、保護者の教育レベルがまだまだ低かったので“聖職”と思われていた時代だ。現代の教師が“仕事”の範疇なら、研修期間という事は当たり前の事態なのである。もう少し「小沢主義考」を続ける。(つづく) (4月29日)
『足跡』〜【1669】(2010/05/18 Tue)
全員一致で「起訴相当」を議決したとの事である。つまり、東京地検特捜部が再捜査に乗り出すという事になる。検察の一押し不足を国民が力を添えたという事になる。
この捜査の結果、再び不起訴になっても、審査会が2度目の「起訴議決」をすれば、小沢幹事長は東京地裁指定の弁護士に強制起訴される事になる。1度目の審査会で全員一致と云う事態は、どうしてもお白州に引っ張り出したいという思いからだろう。 パフォーマンスが下手で政治行動・活動がアングラという概念を国民は持っているので、疑念を持たれるとその大きさも実態の何倍にもなる損なタイプである。勿論、“煙りの無い処に火は立たぬ”から、白日の下で消火活動をする事も重要である。 個人的には疑義を持たれている状況に実態があったとしても、小沢氏が20数年前に自民党を飛び出して政治改革を目指した根幹に官僚組織の打破があった。政権が交代可能なら現実味が帯びてくるという活動の流れであった。私の援護する唯一の対象である。 壊し屋と云われ、剛腕と云われても民意の反映を容易にする小選挙区比例代表並立制に移行し、ネジレ現象を経て衆参の完全制覇で腐った自民党・官僚組織を叩きのめし、健全な野党(自民党)再生を視野に入れての政治活動であると私は認識してきた。 その様な流れで政界で払拭しきれない“政治とカネ”の問題でマスコミや不都合を被る勢力から必要以上のバッシングを受けて、表舞台からの退場気運を更に高揚させているポジションに、個人的にはマスコミの偏向報道や検察の政治性に疑問を持ってきた。 その辺りをメルマガから参考記録しておきたい。(昨日の「オリーブの声」の続きとなる) 『なぜ、そうなるのか、それはこの国の戦後65年体制の事情が深く根ざしていると結論できた。それは、日米安保こそが、官僚統制経済の根幹システムであり、錦の御旗であり、必然的に報道機関もそのシステムに組み込まれることで、その既得権益を享受して来たと結論出来る。 米国にとっては西半球の戦略拠点が日本であり、東半球は英国とドイツがその拠点だ。この拠点性こそが、日米安保の核心であるにも関わらず、自民党霞ヶ関政権は、その下で日米安保を政治的な上位システムと見なし、それを国民に押し付けて来た。その理解に基づけば、沖縄に基地があるのは仕方が無いということになるからだ。 だが今回の「沖縄県民大会」はその重圧を跳ね除けるに十分なものであった。沖縄県民は、公約に記されていないが鳩山氏や岡田氏が先の衆議院選挙で訴えた県外・国外移設を採り上げ、その実現を要求している。 最早、くいひとつ打てない辺野古沖基地建設など、その実現は有り得ないのである。沖縄は日本の県であるが、これがキルギスのように国であれば、政権倒壊が起きている。 一方、この国では日米安保は聖域となり、外務省を始めとする官僚はそれを権力に利用していた。したがって自民党政権下での日米地位協定も全く改定されていないどころか密約だらけ、その中には訴追権限の放棄まであった。(@@)自民党が、立党の精神に自主憲法制定を掲げても、それは65年間只のスローガン(お題目)に終わった。アホらしい。 詰まるところ、自民党と霞ヶ関の官僚と財界は統一的な腹積もり=国を売る、ことで権力を維持して来たと指弾されても仕方あるまい。真の自立を掲げる小沢氏のような政治家は、この売国システムの聖域を邪魔する存在であり、あらゆる手段を尽くして妨害しようとしているのだ。(後略)』 この社説の執筆者は何年も前からアンチ自民党で攻撃してきたから、最初から民主党に傾いている。其れを知って読んできたが、全てが賛同と云う内容で無かったので記録学習の面でも引用は避けて来た方である。 昨日の検察審査会のニュースを知る前に、本日の投稿用で準備していたのが下記の記事である。私の考えに違和感が無いので、保存しておいた。 『ニュースクリップ : 小沢主義考(3) 「お上」意識と民主主義(4月17日付け、オリーブニュース) 多くの日本人は、日本はアメリカやフランスなど同じような民主主義国家だと信じているだろう。だがその成立の違いから、民主主義に関する国民の意識に大きな違いがある。 多くの民主国家は、フランス革命やアメリカ独立戦争など、国民が自らの血を流し、民主主義を手にした。日本人は、ある日突然GHQのお達しで、女性を含め成人全てに参政権が与えられた。一滴の血も流さずに与えられた民主主義である。 戦前の役人は「天皇の官僚」。国民にとって官僚は「お上」であった。戦後、急に民主主義と言われても、国民の「お上」意識は抜けない。しかも戦前から、永田町の政治家たちはいつも政争にあけくれ、金権政治をやっているようで、信用できない。 霞ヶ関の官僚は東大出のエリート。そのエリート官僚が政治を支える方が安心である。小沢氏は、かくして「官僚信仰」とでも言うべき思想が国民の間に定着したと言う。 既に小沢主義考(1)で述べたが、小沢氏は「民主主義国家である日本の政治を政治家でなく、官僚が取り仕切ってきたこと自体が異常なのだ。官僚が政治に手を染めること自体、民主主義に反する。民主主義国家で、立法・行政という二大権力の機能を政治家が動かすことができるのは、政治家が主権者である国民に選ばれているからである」と云う。 この当然のことを改めて説かねばならない処に、日本の悲劇がある。官僚には「政治責任」がないし、大きなミスをしても免職になることもない。しかも官僚は主権者である国民の信任投票を受けた訳でもない。 官僚が政治を行ってはならない理由は、これらに尽きるだろう。民主党政権になり、官僚の立つ位置が、少しは変わってきたが、自民党政権下では、官僚と官僚システムは、誰からもチェックを受けることのない存在であったことは、今では誰もが知ることになった。 一方政治家は、選挙と云う場を借りて、自分の信念を国民に問う。もし、その政治家の信念や政策が間違っていると国民が判断すれば、その政治家は落選する。また、政権与党の採った政策が間違っていたら、その党は選挙で与党の座を失うことになる。 民主主義の優れたところは、このようなチェック機能があって、常に権力の暴走を監視するシステムになっているからだ、と小沢氏は言う。 小沢氏の政治家と官僚についての考えは、国民の信認を受けた政治家同士が、国会で自分の信念に基づいて議論するのだから、官僚の国会答弁は必要ないとなる。また、議院内閣制であり、政治主導の政治を行うには、大臣だけではなく、100人以上の国会議員が副大臣や政務官として政府に入って行政に携わる。そう言う構想になる。 その裏には、自民党のような政務調査会とその部会を設けると、政府と与党の二頭政治が行われることになり、「誰が最終責任者」になるのかが曖昧になる。 つまり結果責任を負わない族議員により、その政策決定のプロセスが不明になり、国民の政治不信を買うことになる。この弊害をなくし、政府と党が一体化するには、政務三役と与党議員による「各省政策会議」を設け議論をする。これが小沢氏の考えである。だがなかなか上手く機能しないようである。 小沢氏は、日本が官僚指導体制を脱して、真の民主主義国家になるには、政府や国会だけの意識改革ではなく、国民全体の政治に対する意識が変わらなければならないと説く。 そもそも、ここまで官僚の力が大きくなった最大の原因は、日本人の「お上」意識にある。自分たちが選んだ国会議員を信用しないで、選挙で選ばれたわけでもない官僚の方を信用するなど、民主主義から言えばとんでもない話なのだと言う。 その当然なことを前にし、明治時代から120年続いた官僚組織が、マスコミを動員して民主党政治に抵抗している。それが今の日本の姿である。 軍人官僚に国を任せ、国を滅ぼし、200万人の命と引き換えに民主主義を与えられた。その民主主義により、史上初めて国民の意思で政権交代を成し遂げた。その民意を、半年も経たないうちから覆そうとする者がいる。国民の民主主義の成熟度が問われているのだろう。』 私自身はこのコラムニストと論調の波長が合うので、学習記録として引用させて貰う事が多い。本件の内容は世間のニュース性から見れば小沢一郎氏の“よいしょ論”となろうが、私が20数年前に読んだ著書が、「自民党でもこういう考えの持ち主が居るのか」という認識の流れで、今日の小沢一郎氏を観ている。 変革とはどういう事かを知って、不都合なら民意の総意として政権を交代させれば良い。民主主義の成熟度とはそういう事である。バランスを欠いた報道で付和雷同となるのも国民。私自身はそれを少しでも乗り越えた状態でいたい。 (4月28日)
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心臓手術で脳機能に大きなダメージを受けた。記憶力の低下で投稿内容を忘れている。自分で思い出すために、このサイトでは日遅れ分をアップしています。
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